突然だが、このシーサーを見てほしい。
めちゃくちゃブサイクなシーサーである。
ただこのブサイクなシーサーは私にとって割と大事なシーサーだったりする。
これはコロナ前の2019年に家族旅行で沖縄に行った時、ホテルのアクティビティで子どもたちと一緒に作ったものだ。
沖縄に行くために空港に向かっているのですが、道中のお店で
「揚げパンソフトクリーム」
というとても健康的な商品が売っていたので思わず買ってしまいました#今日も私は健康です pic.twitter.com/eleq9s9lsZ
— 内科医たくゆきじ (@takuyukiji) October 27, 2019
「2019年に沖縄に行った」ということは覚えているが、詳細な記憶は正直言ってほとんど無い。
そりゃあそうだろう。
昨日食べたご飯のことすら覚えていないのに、5年も前のことなんか覚えているはずがない。
ただシーサーに限らずこういうものを見ると、その時の記憶がなんとなく引き出しの中から飛び出してくる。
そしてそのときは決まってこう思い出す。
「正直この時のことは良く覚えていないけど、楽しかったよなぁ」
ヘンゼルとグレーテル
そういう意味で私は「過去の記憶の目印になるもの」を不意に見るとなんだか嬉しくなったりする。
例えば写真。例えばお土産。
こういったものは過去の記憶の断片と密接に絡みついているので、そのときの記憶がなんとなく思い出されるんだよね。
そしてそういうときには決まってポジティブなことしか思い出さない。
「あぁ…楽しかったよなぁ…」
だとか
「良い思い出だなぁ…」
だとか、そういう気持ちになることがほとんどだ。
そういう時、まるでヘンゼルとグレーテルのパンの耳のようだなぁと思うことがある。
過去の自分の人生に目印を付けてくれているもの。
そのパンの耳をどこにしまったのかは自分では意識していないけれど、ふと目に入るとその時の記憶が蘇ってきてなんだか懐かしくなる。
そういったものは私の中でとても大きな価値を持っている。
仕事における目印に相当するもの
プライベートにおける目印に相当するものは写真やお土産だけど、仕事においてはどうだろう。
人によっていろいろな形があるだろうが、私の中には間違いなく論文がある。
過去に「学位取得と学位論文について」というブログを書いたことがある。
学位取得と学位論文についてこちらの記事の中でも以下のように書いたことがある。
夜中にマウスの様子を見に、寒い中一人で実験室に向かった日も。
実験室のスタッフと実験室で笑い合った日も。
後輩と夜中に基礎棟の一階のソファーに座って、アイスを食いながら将来について話しあった日も。
振り返ってみるといい思い出として自分の中に残っている。
学位論文の内容を改めて読み返してみると、やはり懐かしい気持ちになる。
そして過去の論文を読み返したときになんとなく見てしまうのは「author欄」だ。
病院で働くメンバーは5年もすると大幅に入れ替わる。私が働いていた当時お世話になった先生は、もうその病院に残っていないこともしばしばある。
ただ論文のauthor欄にはその論文を書いた当時協力してくれた先生、その病院で同じ時間を過ごした先生が執筆した当時のまま残っている。
「大学にいたときに、この論文はこの先生と相談したっけなぁ…」
だとか
「そうだそうだ、この方の治療方針は少し悩んだなぁ…」
といった感じに。
そういう意味で論文は自分の業績になるという面も当然大きいが、思い出になるという側面も個人的には大事だったりする。
論文を執筆した当時、authorの先生たちと同じ時間を共有した証になるからだ。
国内留学先で論文がアクセプト
先日国内留学先の日大板橋病院で書いたケースレポートがアクセプトされた。
ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!
日大に国内留学に来てから書いたSVTのcase reportがアクセプトされたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!#内科医たくゆきじの国内留学#EP大学
— 内科医たくゆきじ (@takuyukiji) August 26, 2024
本当に嬉しい。
このケースレポートを書く過程で色々調べて勉強になっただけでなく、思い出も増えた。
SVTの鑑別診断や所見について勉強したり。
不整脈班の先生に夜な夜な相談したり。
研究会の発表の舞台で質問に全く答えられず、壇上から質問者に対して無言で一礼したり。
自分の中で色々な思い出がある。
そしてauthor欄をみると、現在進行系で日大でお世話になっている先生達と同じ時間を共有したという証が残るのもとても嬉しい。
将来この論文が
「あぁ…日大の先生たちと一緒に働いたよなぁ。お世話になったし楽しかったなぁ。」
という懐かしい記憶を思い出す際の目印になるのは、おそらく間違いないだろう。
メメント・モリとお別れの時間 登山のような人生を 祭壇に供物を捧げる行為